新たなる貧困−グローバリズムと帝国の狭間で このページを印刷する このページを閉じる
 最近の世界の経済社会の顕著な動向は、以前からの問題であった先進国と発展途上国間の所得格差いわゆる「南北問題」に加えて、先進国内においても貧富の差が急激に拡大しつつあるという現象である。発展途上国においては依然として大土地所有制と、前近代的資本による商工業の特権的支配による一握りの富裕層と大多数の低所得者による貧富の格差は解消されないままである。他方先進国においても後述のような国際政治の新しい展開と日米両国の政策転換によって同様の動きに拍車が掛っている。

 発展途上国経済の発展を図るための国際金融機関としては第二次大戦直後に発足したIMFと世界銀行がある。近年これに加えて先進国と途上国とを問わず貿易の自由化による世界経済の拡大を推進するためにWTOが設立され、これら三国際機関に先進各国政府が協調しながらグローバリズムが強力に推進されている。その推進原理となっているのは、自由競争と比較優位にもとづく自由貿易が究極において資源の最適配分をもたらす、という「新古典派」経済学と「比較優位」の経済原理である。取りあえず教祖としてアダム、スミスとリカードを思い浮かべていただければ結構である。

 今ひとつこの流れを国際政治のパワーゲームの展開が背後から強力に支えている事を見逃してはならない。

 一九八〇年代末に生じたソヴィエト連邦の崩壊と共に終焉した東西冷戦の結果、米国の軍事力は他国を俄然凌駕して遂に「帝国」と呼ばれる迄に肥大した。ここに米国ではブッシュの大統領再選とその取り巻きである「ネオコン」と呼ばれる超保守的権力集団が、国内にあっては自由競争経済を推進し対外的には米国の国家利益=覇権を貫徹のためにはその圧倒的な軍事力の行使も辞さない、という飽くなきパワーポリテイクに終始している。

 一方その帰結として東欧諸国、中国という新たな発展途上国による資本主義市場への参入による安価な商品と農産物さらには労働力大量供給によって先進国の価格破壊現象が一般化した。他方先進国の側でもこれに呼応して欧州主要先進国による経済統合を機軸として拡大EUが誕生しつつある。

 この一連の流れの意味する所は「国民経済の破壊」という事ある。ここに言う「国民経済」とは無教会の先達でもあった大塚久雄や松田智雄などのライトモチーフであった「額に汗して働く自営の人々の生産した農産物や日用の工業製品が商人に搾取される事無く国内で流通し、農業と工業が連携を保ちながら国民の経済価値=国富を拡大再生産していくような国民経済の在り方」とでも表現される経済発展の型を指している。

 「国民経済」を内部から切り崩しているいま一つの要因はIT技術の革新である。これによって製品の開発と生産工程の分離、生産労働力の素人化、さらにはソフトウェアとハードウェアの分離が可能になり、国際企業の賃金の安い発展途上国に工場を容易に移転する動きが一般化した。さらにはITのホワイトカラー部門への適用によって大量の余剰労働が発生するに至った。こうしてバブルの後始末としてのリストラは従来の工場労働者に止まらず事務職員、管理層にまで広範な広がりを見せるに至った。資本が生産設備に加えて、労働力をも世界の好きな所で調達ができるようになった今日、資本の力に対抗する労働の力は誠にか細いものに墜した感を禁じえない。企業は常勤労働に代えて大量の派遣社員や契約社員を雇用する一方で、「成果主義」を導入し社員間の賃金格差を拡大しており、労働分配率はかつてない水準に迄低下している。他方法人税率の引下げ、高所得者を優遇する累進税率の引下げの反面、消費税率引き上げの動き、どれを取ってみても、まさに神をも恐れぬ権力者の所業といわざるを得ない。(消費税とは歴史上悪名高い人頭税に他ならない)もはや日々の勤労はかつてのように歓びを伴うものではなくなってしまった。かくして現在の日本では自殺者は実に年間三万人の多きを数えるに至り、ニートといわれる働かざる若者は七十万人に達しているといわれている。大都市に働く人たちにとって通勤電車の遅延は今や日常茶飯事となっている。「人身事故」よるものである事に、もはや大して驚かなくなっているという恐ろしい現実が私達の生活を覆っている。

 世界の秩序が変わり新しいテクノロジーが浸透していく過程では一握りの成金が現れるのは歴史の常である。しかし、権力の地位にある者たちの社会の一部の階層に属する人々のみを利する政策によって、大量の真面目に働いて来た人々が経済的に貧困化し、その結果精神的な苦痛を味わう虐げられた階級に貶められる事には私達は決して沈黙する事は許されないはずである。権力が公道と正義を疎かにして世に貧富の差が拡がり、社会の良識の担い手たる中産階級が没落した社会が、どれほどの強権を誇ろうとも内部崩壊して歴史から消えさった例を私達は数多く見てきた。神がこれを許し給わなかった故である事を聖書は示している。

 ところでこれまで概観した政治、経済、社会の動きは米国のネオコン達が信奉するニュウエコノミーが誇示するようにその原理において従来のパターンから一変したのだろうか?

 答えは否である。世界史を紐解いてみれば一見新たなる時流として現出しているかに見えて、その実その原理において先人達が歴史上経験済みの事が数多い。高校で世界史を勉強した者ならA.スミスやリカードに加えてF.リストの名前を記憶しているはずである。日本でも前出の大塚、松田氏、さらに私達に身近な先輩として矢内原忠雄の存在がある。

 先達の国際経済のダイナミズムを要約すると、
『大塚、松田流の理想型としての「国民経済」の形成を未だ達成出来ていない「相対的後進国」が、これを既に終えた「相対的先進国」と自由貿易を強行すると、来るべき国民経済構造の健全なる育成とひいては国富の蓄積という経済政策の根幹が危機に瀕する事になる。そこで相対的先進国の迫る自由貿易に対して、相対的後進国は保護貿易政策を採用して国民経済を防御するのである。』、という事になる。

 俗に言うA.スミスの「自由貿易論」に対するにF.リストの「保護貿易論」である。歴史上南北戦争時に米国の採った貿易政策でありリストがドイツ政府に建言した所である。戦後日本が戦略産業を保護貿易で育成した歴史的事実は、政府はさておきWTO礼賛の論陣を張る学者や知識人の記憶から脱落しているのであろうか?

 今日の「新自由主義」経済政策の跋扈を目の辺りにして、矢内原忠雄世に在りせば「新たなる植民地主義の陰謀」と論駁するのではあるまいか。現在の先進国が発展途上国の「相対的後進性」を凍結し、将来の発展の芽を摘み取ってしまう事が透けて見通せるからである。
私達の眼前には少数権力者による多数の貧困層の拡大再生産を招来する政策の強行、凍結され続ける先進国による途上国の人々の抑圧政策への加担、その収斂する所は「帝国」との悪の共有、という「罪の構図」が実在している。

 これに異を唱えずして私達の信仰は義とされるであろうか?

 『比のともがら黙さば、石叫ぶべし』(ルカ伝第19章40節)

季刊 無教会 第3号から< 原文のまま掲載>
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